王佐の才

2か月に1回のペースでしか更新しないブログに意味あるの?と我ながら思うが、跋文を思い付くまでは終わらない。

江戸時代の儒者伊藤仁斎孔明論について。

『古学先生文集』巻6「読諸葛孔明伝」


或問曰,宋諸儒以諸葛孔明爲王佐之才,然乎。
曰,非也。孔明覇者之臣耳。
何以知之。
曰,以其言與學而知之。孔明嘗在隆中,自比管仲樂毅而勸後主讀韓非之書。
其學出於申韓刑名法術之流。此豈非覇者之臣耶。
(中略)
然則子能爲孔明之事乎。
曰,人各其才學,各有其所得。
不能孔明孔明不能爲我。
然則子之術可得而聞乎。
曰,可也。古之宰相有曰,以半部論語治天下者。我亦以孟子梁惠王一篇治天下乎。

孔明が王佐の才を有しているかについての問答。
孔明の言動に法家の影響がみられるから孔明は覇者の臣であって王佐の才を有しない、という趣旨である。
江戸期には朱子学が官学とされ、孔明が忠義を尽くす王佐の才であったとする朱熹の見解は日本での通説になった。一方、伊藤仁斎古義学に立脚して朱子学孔明観を批判した。
このことについてはすでにいくつかの先行研究がある。以下は私見
「我不能孔明孔明不能爲我」は、名言集の類で「人各能、不能あり、我孔明たるあたわず、孔明我たるあたわず」などと紹介されるものの原拠である。しかし、朱子学古義学との対立を捨象してこの箇所だけを提示すると「ナンバーワンよりオンリーワン」とかの浅薄な意味に取られ兼ねない。というか、むしろ名言集の類は読者をその意味に誤導しているようにも思われる。
ここは「孟子の徳治をもって孔明のような事業をなしうるか?」という問いに「徳治によっ て法家の術とは違う行き方で善政を敷くことができるよ」、と答えたものと理解すべきであって、「オレだって孔明さんにできない事ができるんだぜ〜」と自己主張が唐突に行われるはずはない。「我」に仁斎自身の一人称としての意味はないとみるべきだろう。

「古之宰相」は宋初の宰相・趙普。「半部論語治天下」とは、

南宋・羅大経『鶴林玉露』乙編・卷1


趙普再相,人言普山東人,所讀者止論語,蓋亦少陵之說也。
太宗嘗以此語問普,普略不隱,對曰:“臣平生所知,誠不出此。昔以其半輔太祖定天下,今欲以其半輔陛下致太子。”
普之相業,固未能無愧於論語,而其言則天下之至言也。

ということで、趙普は「『論語』の半分で太祖に天下を定めさせた、残りの半分で太宗を皇太子にしよう」と述べた、『論語』はそれほどすぐれた書ですよ、という話である。
「我亦以孟子梁惠王一篇治天下乎」とは、「孟子の徳治に聞くべきものはあるか」という問いに「『論語』と同様に『孟子』も梁恵王章句の内容だけで天下を治められるぐらいすぐれた書ですよ」、と答えたものであって、ここでの「我」も仁斎の一人称としての意味はないというべき。さすがに字義通り「オレが孟子さんの理屈で天下を治めてやんよ!」とブチ上げるはずはない。

それにしても、ご政道批判スレスレの文章で朱子学に真っ向からケンカを売る古学先生はチャレンジャーだ。というか仁斎の当時には御用学を批判できる程度には学問の自由があったということでもあるだろう。