迷子の迷子の曹操さん

王粲『英雄記』は『三国志裴松之注に散見されるが、『英雄記』中にあるとされる「曹操赤壁戦の頃に雲夢大沢で霧に遭って迷った」という記事は裴松之の当時散佚していたか取るに足りないと判断されたか、ともかく裴注で引用されなかったために顧みられる機会が少ない。

『英雄記』中の曹操が道に迷った旨の箇所を引用したのは

隋・虞世南『北堂書鈔』卷151・天部2・霧篇11
 霧迷道 漢記云、曹公赤壁之敗、至雲夢大澤、遇大霧迷道。

がおそらく初出。以下は後人による注。

 今案類聚卷二引漢末英雄記、敗誤役、至上有行、字餘同。
 初學記卷二引亦作英雄記、有敗字、至作行、迷道作迷失道路。


芸文類聚』『初学記』はいずれも唐代の類書。そこで両書をみると

欧陽詢芸文類聚』巻2・天部下・霧
 英雄記曰、曹公赤壁之役、行至雲夢大澤中、遇大霧、迷失道。

徐堅『初学記』巻2・天部下・霧第6
 王粲英雄記曰、曹公赤壁敗、行雲夢大澤中、遇大霧、迷失道路。


とある。『北堂書鈔』の注が指摘するように「赤壁之役」「赤壁敗」と字句に異同がある。なお、『英雄記』を明の王世貞が輯したものでは
 

曹公赤壁之敗、至雲夢大澤、遇大霧、迷道。

とある。

霧に遭って迷ったのが往路の事件か復路の事件かがここで問題となる。「役」を採ればいずれか判断し難くなるのに対し、「敗」だと帰り道での出来事だと解釈する方向に傾きやすいだろう。大霧に遭ったのが赤壁戦前の事だとすれば、曹操の側にとっては天災というべき霧を敗戦のエクスキューズにできそうな気がするし、赤壁戦後の事だとすれば霧を負けた言い訳にはできなくなるだろう。
王粲は曹操の下僚であって、曹操を擁護すべき立場にあったとはいえる。一方、王世貞は蘇軾の『諸葛亮論』における孔明批判に猛反論した蜀漢マニア。

曹操は本当に霧に遭って道に迷ったのか、迷ったとすればそれは赤壁戦の前なのか後なのか、そもそも王粲は問題の箇所をどのように書き残していたのか。
真相は霧の中である。