読書感想文

夏休みといえば読書感想文。読書感想文といえば、明代の王世貞という人が古今の文章についての感想文の体裁を採った史論『読書後』を著している。という強引な前フリで今回は『読書後』「書鄧禹伝後」を読んでみる。

『読書後』巻2 書鄧禹傳後


鄧仲華有遠識,蕭張流也,然而非大將材也。其心寄雖已篤而齒*1,尚卑名位,尚輕戰事*2,尚未練。
一旦中分六師之半*3,崇以三公之位而委之關中之大敵,竊以為光武誤也。
斯道也高祖盖深知之,故根本付之酇侯*4,謀畫寄之良平而大將之印獨舒徐焉,必待淮陰而後有所歸彼,於料已料敵審也。
夫史稱光武諭河西其將吏皆臣服,以為天子明見萬里外,雖然此一事耳。
吾以為明不如高祖。(中略)若光武者猜龐萌,抑隗囂,薄彭寵而致其叛於呼吸成敗之際,不為明且遠也。
我高皇之善任也實與漢高竝。是故韓公*5誠意跡不蹈行陣而中山*6、開平*7歳不絶受脤之託,彼皆各當其用也。
然則善将将者毋若漢高之與我高皇也。


(笑訳)


鄧禹は遠望の持ち主であり、蕭何・張良の類の人物である。しかし大将の器ではなかった。
志は篤く早熟であったが、なお官位をおとしめ、軍事を軽んじ、練達の域には達していなかった。
このような鄧禹に軍勢の半分を一度に分け与え、大司徒の位を授けて関中の難敵に当らせたのは光武帝の誤りだと考える。
漢の高祖は人の起用法を熟知していたので、国家の根本は蕭何に、謀略は張良・陳平に、軍事は韓信にそれぞれ任せていた。
光武帝は河西の竇融を諭してその将吏はみな臣服し、光武の明察は万里を超えていたと称されるが、それは河西の一事のみである。
私はその明察は高祖には及ばないと考える。(中略)光武帝は龐萌を疑い、隗囂を抑圧し、彭寵を冷遇したため、すぐにかれらの反乱を招いた。これでは明察・遠望とはいえない。
明の太祖は人をうまく起用する点で漢の高祖に並ぶ。ゆえに李善長はたゆまず参謀を務め、徐達や常遇春は常に軍の指揮を任され、それぞれ起用に応えた。
このように、よく将に将たる者は漢の高祖と明の太祖にしくはないのである。


後漢光武帝劉秀の功臣・鄧禹が戦下手だという意見は現代のネット上でも見掛ける。関中で赤眉にボロ負けしたせいだろう。これは最近の意見でもなくて、明代にはすでに言われていたことがわかる。
それはともかくとして「書鄧禹伝後」は鄧禹伝を話しのマクラにしつつも、鄧禹その人の能力ではなく劉邦や劉秀、朱元璋らの人使いの巧拙を主題としている。ただし人の使い方と密接に関わるはずの問題、すなわち劉邦朱元璋が功臣たちを消していったことはスルーしている。明初の粛清から200年ほど経っているとはいえ、この点を指摘するのはさすがにヤバかったとみえる。

ところでやる夫光武帝の新作はまだ?

*1:「歯」は「よわい」で、早熟であること?

*2:鄧禹は関中で赤眉に負け、ムキになって仕掛けたリベンジマッチで惨敗している。「卑名位」「軽戦事」とは大司徒の地位と名誉をおとしめるような軽率な軍事行動を起こしたこと?

*3:劉秀の手勢4万人のうち2万人を関中攻めに割いて鄧禹に与えたこと

*4:蕭何。そういえば鄧禹も酇侯に封ぜられていた。

*5:韓国公・李善長。

*6:中山王・徐達。

*7:開平王・常遇春。