四川

蜀漢が中原に進出できなかったことは、ネット上の三国志談義で盛んに論じられるトピックのひとつである。これは「○×すれば進出できた」の類のIF系シミュレーションの肴にされたり、劉備孔明らが無能であることの根拠として挙げられ、ループ進行に寄与することがしばしばである。

しかし、古蜀から武漢国民政府に到るまで、四川盆地に割拠した幾多の勢力のうち中原に進出して天下を獲ったのは前漢だけである。古蜀とかどれだけ中原に出る気があったかつう話もあるがその点は措く。これは四川が人為では克服できないぐらい地政学的にほとんど詰んだ地域であることの証左といえないだろうか。
歴代の四川の勢力がほとんど全て中原進出に失敗した事例はどれもこの地域を足掛かりに中国を統一することの難しさを示す好個の材料であり、これらの事例を仔細に検討することは非現実的なシミュレーションを百万回繰り返すよりも有用だと思う。ただし自分で検討する予定は無い。
まして結果論で蜀漢政権が無能だと言い立てるのは筋違いだろう。

という主張をループのただ中に放り込む元気はないので自分の巣の中でつぶやいておく。
で古人の文章に似たようなことを言ったものはないかと探したが見つからなかった..
その代わり、でもないが蜀がらみで面白い文章があるので載せておく。

南宋・洪邁『容齋四筆』 巻16 取蜀將帥不利


巴蜀通中國之後,凡割據擅命者,不過一傳再傳。而從東方舉兵臨之者,雖多以得鉨,將帥輒不利,至於死貶。
漢伐公孫述,大將岑彭、來歙遭刺客之禍,吳漢幾不免。魏伐劉禪,大將蠟艾、鍾會皆至族誅。
唐莊宗伐王衍,招討使魏王繼岌、大將郭崇韜、康延孝皆死。
國朝伐孟昶,大將王全斌、崔彥進皆不賞而受黜,十年乃復故官。

清・趙翼『陔余叢考』 巻40 取蜀將帥不利


洪容齋歴叙古来中國取蜀將帥多不利。(『容齋四筆』とほぼ重複するため中略)此北宋以前可歴歴数者也。
元憲宗率兵入蜀,攻重慶,被傷,卒于釣魚山下。
明湯和、傅友紱取蜀,和被鐫責不賞,友紱家雖獲賞而終不得其死。則取蜀將帥誠不利也。

蜀攻めの将がしばしば不運に見舞われるというジンクスである。この地域には人智の及ばない何かがあるのだろうか。