『項羽と劉邦−若き獅子たち』の元ネタ

項羽と劉邦若き獅子たち』が単行本化された際に書店に配布された販促用色紙

横山光輝氏の『若き獅子たち』は楚漢の興亡を描いた作品だが、虞美人の弟・虞子期*1の存在や商人に扮した鍾離昧が懐王の孫を探す場面、韓信の軍法など、『史記』・『漢書』を根拠としないものが散見される。
その元ネタの多くは元禄時代の夢梅軒章峰・徽庵*2による『通俗漢楚軍談』、およびその底本である明・甄偉の『西漢演義』である。
例えば始皇帝の夢に青衣・赤衣の子供が現れて太陽を奪い合う場面は『西漢演義』では以下の通りである。

西漢演義』 第7回 始皇命徐福求仙


見紅日墜于面前,従東一小児,身着青衣,面如鋼鉄,目有重瞳,向前欲抱太陽,未曾抱起,従南又一紅衣小児,大叫:“青衣小児,未可抱去!我奉上帝敕命,特来抱太陽。”
両個不服,各努力争打。青衣小児,連摔紅衣小児七十二交,紅衣小児不服,跳将起来,用力打訖一拳,青衣小児仆地便倒,気絶而死。紅衣小児将太陽抱起向南去。
始皇叫小児:“且住!我問你是誰家小児?通個名姓!”
小児曰:“我是堯舜之裔,生于豊沛,先入咸陽,蜀封興義。沙丘汝帰,長安我立,帝簡命在,四百之祀。”
言罷,向南而去,只見雲霧迷天,紅光満地,小児不知所往。...

笑訳に代えて『通俗漢楚軍談』の該当箇所も載せる。

『通俗漢楚軍談』 巻1 始皇巡狩望雲気


紅ノ日輪御前ニ落タリシカ,身ニ青衣ヲ披(き)テ面ハ鉄ノ如ク,眼ニ重瞳アル小児東ノ方ヨリ走来リ,日輪ヲ抱テ去ントスルニ,又紅衣ヲ披タル小児南ノ方馳セ来リ。
「汝ナニトテ日輪ヲ取ントスル,我天帝ノ命ヲ奉タリ,速ニ還セ」ト呼ハリ,互ニ争フテ打合ケルガ,青衣ノ小児初ノ間ハ力強メ紅衣ノ小児ヲ連打七十二度ナレバ,紅衣ノ小児肯テ倒レズ力ヲ出シ一度打タレハ,青衣ノ小児地ニ倒テ死タリケリ。
此ニ依テ紅衣ノ小児日輪ヲ抱テ南ヲ指テ去ケルヲ始皇声ヲ揚テ「小児シバラク(とどま)レ,汝ハ如何ナル者ソ」ト問玉フニ,小児答テ申ケルハ「我ハ是堯舜ノ裔,豊沛ニ生レ,先ニ咸陽ニ入テ義ヲ興シ四百年ノ基ヲ立」
ト云ステテ南ヲ指テ走去ケルカ,雲掩ヒ霧起リテ紅ノ光ヒラメキケレバ...

楚漢の興亡の暗示というには露骨すぎるネタバレであるが、明代の思想とか歴史観が反映されているのかと勘ぐってみたくなる。
項羽劉邦の化身である子供たちに青・赤の服を着せたのは五行説を根拠とするものであろうが、漢を火徳=赤とするのは当然としても、楚を木徳=青として木火土金水のレールに乗せる例は少ないように思われる(参照、http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090721/1248102274)
また、青服の子を舜と同じ重瞳の持ち主としながらも、赤服の子を舜の裔としている。これは項羽が舜の末裔であったかもしれないと暗示する、『史記項羽本紀に収録された伝承を真っ向から否定するものである。
これらのことが明代の思想状況と関係があるのか、単に創作上の都合で書かれたものか調べてみるのもいいかも知れない。

*1:西漢演義』では虞美人の父方のいとこ(「堂弟」)、『通俗漢楚軍談』では虞氏の「一族」、ついでにドラマ「大漢風」では虞美人の兄。

*2:やる夫光武帝・39章・40章にも登場する。