武将のイメージ

中国歴代正史にみえる「武将」の一般的なイメージについて。

後漢書』 列伝12 杜茂伝


(郭)涼字公文,右北平人也.身長八尺,氣力壯猛,雖武將,然通經書,多智略,尤曉邊事,有名北方.

光武帝の部下・郭涼は武将ながら経書に通じ、智略多く、辺境の事情に明るく、北方に名を知られていた。

三国志』 巻17 張郃


(張)郃雖武將而愛樂儒士,嘗薦同鄉卑湛經明行修,詔曰:「(中略)今將軍外勒戎旅,內存國朝.朕嘉將軍之意,今擢湛為博士.」

魏の張郃は武将ながら儒者を尊び、同郷の卑湛を経明行修に推薦した。卑湛は博士となった。

三国志』 巻43 王平


(王平)遵履法度,言不戲謔,從朝至夕,端坐徹日,浆無武將之體,...

蜀の王平は法を遵守し、冗談を言わず、一日中端座し、武将らしからぬ様であった。

旧唐書』 巻84 劉仁軌伝


(劉)仁願既至京師,上謂曰:「卿在海東,前後奏請,皆合事宜,而雅有文理.卿本武將,何得然也?」對曰:「劉仁軌之詞,非臣所及也.」上深歎賞之,因超加仁軌六階,正授帶方州刺史,并賜京城宅一區,厚賚其妻子,遣使降璽書勞勉之.

唐の劉仁軌は百済との戦いで放置された遺骸を葬り、インフラを再建し、民を慰撫した。劉仁軌の僚将・劉仁願が都に戻ると、高宗は「そなたの朝鮮からの上奏・請願はみな事宜にかない、筋道だっていた。武将であるのに、どうしてそのようなことができたのか?」と言った。劉仁願は「あれは劉仁軌の文です。私にはとても書けるものではありません」と答えた。高宗は劉仁軌を六階昇進*1させ、正式の帯方州刺史とし、都に邸宅を構えさせ、妻子に厚く施し、璽書をもって慰労した。

武将は脳ミソ筋肉で無作法、ろくな文章が書けないのがデフォルト、というイメージを持たれていたことがこの4例からわかる。もちろん上の4人を含め、このイメージにあてはまらない人物もいた。ただ、「知将」「儒将」などのことばが存在することとか呂蒙脳筋卒業が語り草になったこととかは、智謀や儒教的教養を備えた武将がやはり少数派と見られていたことの証左だろう。

*1:唐制の人事考査は「四考」で「中中」なら「一階」、すなわち4年を大過なく勤めれば一階昇進するということで、いっきに六階昇進するのは異例の大出世である。こんな褒賞を自分のものと偽らなかった劉仁願は偉い。というか、上奏文に署名がなかったとか高宗が仁軌と仁願をゴッチャにしてたとかでなければこんなやり取りにはならないはず。