ボンバイエ

アリグモ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%A2
アリそっくりのクモである。年に数回こいつに遭遇する。天井からツツ〜と糸を引いて降りてくる(この動作を見ないとクモだと気付くのは難しい)。捕食の対象を探す様子でもなしにひとしきり室内をうろついた後、どこかへ消える。

体長7~8mmぐらい。一番前の足を触角に似せているようにも見える




こうして見るとやはり8本足


撮影終了後はスタッフがおいしく頂屋外にリリースした。どうでもいいが写真のテクには負の自信がある。

読書感想文

夏休みといえば読書感想文。読書感想文といえば、明代の王世貞という人が古今の文章についての感想文の体裁を採った史論『読書後』を著している。という強引な前フリで今回は『読書後』「書鄧禹伝後」を読んでみる。

『読書後』巻2 書鄧禹傳後


鄧仲華有遠識,蕭張流也,然而非大將材也。其心寄雖已篤而齒*1,尚卑名位,尚輕戰事*2,尚未練。
一旦中分六師之半*3,崇以三公之位而委之關中之大敵,竊以為光武誤也。
斯道也高祖盖深知之,故根本付之酇侯*4,謀畫寄之良平而大將之印獨舒徐焉,必待淮陰而後有所歸彼,於料已料敵審也。
夫史稱光武諭河西其將吏皆臣服,以為天子明見萬里外,雖然此一事耳。
吾以為明不如高祖。(中略)若光武者猜龐萌,抑隗囂,薄彭寵而致其叛於呼吸成敗之際,不為明且遠也。
我高皇之善任也實與漢高竝。是故韓公*5誠意跡不蹈行陣而中山*6、開平*7歳不絶受脤之託,彼皆各當其用也。
然則善将将者毋若漢高之與我高皇也。


(笑訳)


鄧禹は遠望の持ち主であり、蕭何・張良の類の人物である。しかし大将の器ではなかった。
志は篤く早熟であったが、なお官位をおとしめ、軍事を軽んじ、練達の域には達していなかった。
このような鄧禹に軍勢の半分を一度に分け与え、大司徒の位を授けて関中の難敵に当らせたのは光武帝の誤りだと考える。
漢の高祖は人の起用法を熟知していたので、国家の根本は蕭何に、謀略は張良・陳平に、軍事は韓信にそれぞれ任せていた。
光武帝は河西の竇融を諭してその将吏はみな臣服し、光武の明察は万里を超えていたと称されるが、それは河西の一事のみである。
私はその明察は高祖には及ばないと考える。(中略)光武帝は龐萌を疑い、隗囂を抑圧し、彭寵を冷遇したため、すぐにかれらの反乱を招いた。これでは明察・遠望とはいえない。
明の太祖は人をうまく起用する点で漢の高祖に並ぶ。ゆえに李善長はたゆまず参謀を務め、徐達や常遇春は常に軍の指揮を任され、それぞれ起用に応えた。
このように、よく将に将たる者は漢の高祖と明の太祖にしくはないのである。


後漢光武帝劉秀の功臣・鄧禹が戦下手だという意見は現代のネット上でも見掛ける。関中で赤眉にボロ負けしたせいだろう。これは最近の意見でもなくて、明代にはすでに言われていたことがわかる。
それはともかくとして「書鄧禹伝後」は鄧禹伝を話しのマクラにしつつも、鄧禹その人の能力ではなく劉邦や劉秀、朱元璋らの人使いの巧拙を主題としている。ただし人の使い方と密接に関わるはずの問題、すなわち劉邦朱元璋が功臣たちを消していったことはスルーしている。明初の粛清から200年ほど経っているとはいえ、この点を指摘するのはさすがにヤバかったとみえる。

ところでやる夫光武帝の新作はまだ?

*1:「歯」は「よわい」で、早熟であること?

*2:鄧禹は関中で赤眉に負け、ムキになって仕掛けたリベンジマッチで惨敗している。「卑名位」「軽戦事」とは大司徒の地位と名誉をおとしめるような軽率な軍事行動を起こしたこと?

*3:劉秀の手勢4万人のうち2万人を関中攻めに割いて鄧禹に与えたこと

*4:蕭何。そういえば鄧禹も酇侯に封ぜられていた。

*5:韓国公・李善長。

*6:中山王・徐達。

*7:開平王・常遇春。

2号機デビュー

中古パーツでサブPCを組んでみる。かき集めたパーツは

マザボ ASUS A7V-M
CPU   Athlon 1.0Ghz
RAM   256MB×2
グラボ RIVA TNT MVGA-NVTNTAL
電源  ATX、230W

ネットとメールならこのスペックで十分。これを中古のAOpen G325に入れる。キューブケースが欲しかったので選んだ。

このケースは搭載できる電源が排気の都合で限定されている(http://aopen.jp/products/housing/g325.html)。
ファンがケース内部に向いていないといけないが、手持ちの230W電源はこの条件を満たさない。中古では対応電源が見つからなかったし新品は高すぎるので手持ちの電源を付けることにした。もちろんCPUが熱でヤラれるリスクは高まるが自己責任でいく。そもそも排気に細心の注意を払う必要があるほど熱くなるCPUでもないと思う。

また、電源ユニットの突起物の位置も対応電源の条件となっている。ACコネクタがケースに当たるため電源が完全にはケースに収まらず、ケース付属の金具では固定できない。下の画像でいうとACコネクタがあと1cmほど右側にないといけない。

ワイヤーを巻き付けて固定したら意外に安定したし、ブサイクでも電源カバーをかぶせるから外からはほとんど分からない。

マザボとドライブ類をケースに収める。取り回しの都合で新品のIDEスリムケーブルを使うハメになり、中古パーツ限定の縛りを破ってしまった。

このケースはデフォルトではリセットスイッチがないが、前の持ち主が付けてくれていた(フロントパネルの一番左)。しかし肝心の電源スイッチが不調なのでリセットスイッチをマザボの電源スイッチピンに挿している。結局いまのところリセットはできない。

とりあえずXubuntu6.06(これまた古い)をインストールしたところ快適に動く。このエントリでテスト投稿を兼ねてみた。一応Windows用のドライバやビデオカードのドライバもネットで落としたが、このままLinux専用機にするとお蔵入りだな...

日食

http://www.media.saigaku.ac.jp/download/pdf/vol7/human/05_yuasa.pdf
吾妻鏡』の日食記事についての興味深い論文をみつけた。

吾妻鏡』で錯簡の疑いがある箇所といえば野木宮合戦の前後あたりが有名だが、この論文では天文シミュレータによる日食の再現結果と『吾妻鏡』の日食記事とを照合する事で他に錯簡の可能性がある箇所をあぶり出している。
また、宣明暦に基づく発生予測がほぼ的中した日食について、現実に観測することなく記事に載せたらしいものがあることから、『吾妻鏡』の編述態度について疑問を呈している。
史料批判はこの論文の主旨じゃないんだが、『吾妻鏡』といえども無批判に使うのは結構危ないということを日食記事によって改めて実感させられた。

ところでこの前買ったVixenの日食グラスは大丈夫だろうか。

馬援の末裔?

前エントリで、

同じ馬氏ならはるかにビッグネームである馬援の子孫でも名乗りたくなりそうなもんだと思うが、南方の攻略で功あった馬援は南方の民族には受けが悪かったのかも知れない。

と書いてみたが、張献忠と戦った明の将軍・秦良玉のダンナで四川の土司を務めた馬千乗という人が馬援の裔だとかいう話がある。しかも前エントリで引いた『清史稿』の列伝と同じ所に書いてあった...

気が向いたらまた調べるかも知れんが、ルーツ遊びはキリがないんでね...

俺を釣れる奴はあるか?!

馬岱についての取扱い注意情報2題。

その1:馬岱の末裔が清代まで四川にいた?!

馬岱の子孫を称する人達が四川の西南部で元・明・清の歴朝を通して土着民の長を務めたという。

『明史』巻311 列伝199 四川土司一 黎州安撫司


洪武八年省漢源縣,置黎州長官司,以芍徳為長官。徳,雲南人,馬姓。祖仕元,世襲邛部州六番招討使。明氏(拙注:明玉珍ら)據蜀,紱兄安復為黎州招討使。明氏亡,蠻民潰散,紱奉母還居邛部。至是,四川布政司招之,紱遂來朝貢馬,請置長官司。詔以紱為黎州長官,賜印及衣服綺帛。十一年陞為黎州安撫司,即以紱為使。十四年,紱遣使貢馬。詔賜紱鈔五十四錠、文綺七疋。自是,三年一入貢。

四川の西南を代々治めていた芍徳という人が、元末以来の混乱が収まった後に黎州の長として明に入貢した旨が記されている。ここでは芍徳は「雲南人,馬姓」というのみだが、

『清史稿』巻513 列伝300 土司二 四川 建昌道提標轄


黎州土百戶,漢馬岱後.其先馬芍徳,於明洪武八年世襲安撫司.萬曆十九年,馬祥無子,妻瞿氏掌司事,與祥姪搆釁,降千戶.順治九年,馬高歸附,仍授原職.乾隆十七年,改百戶。

『清史稿』では唐突に「漢馬岱後」とされている。その根拠は以下に見える事件ではないだろうか。

清・彭遵泗 『蜀碧』巻3 起乙酉、止丁亥


〔順治2年〕黎州宣慰司馬京及弟亭,起兵討賊。初,賊以蜀人易制,惟黎雅間土司難於驟服,用降人為招誘,鑄金印齎之,易其章。馬京者,漢將馬岱後也,年十六,得印,擲之地,誓眾不服。時,偽遊擊苗姓率眾赴黎雅任,京密令通把調集番眾與亭攻之,擒偽弁七十餘人,於演武廳申明大義,斬首祭旗,起兵討賊。

同書巻4 起順治戊子、止仁皇帝康熙二年癸卯


〔順治7年〕劉文秀攻黎州,土於戶馬亭、李華宇等戰死。初,亭、華宇及楊起泰等,佐馬京破賊於龍觀川,賊敗去沈黎,不被寇者數年,京卒,亭襲為千戶。文秀至,竭力拒守,被執,不屈死。

清初、「漢将馬岱後」で黎州宣慰司の馬京と弟の亭とが「賊」こと張献忠に抗した。馬京が死んで亭が千戸を継いだが、亭は張献忠の部将・劉文秀に殺された。『清史稿』で順治9年に清に帰順して「原職」の黎州土司千戸を授かったとされる馬高は、馬兄弟の縁者のように思われる(初め馬高と馬亭とを同一視してみたが、さすがに無理があった...)。

そして、『明史』では「馬姓」とされるに過ぎなかった芍徳も、清初に「漢将馬岱後」の馬兄弟が登場したせいで、『清史稿』では黎州土司ごと遡って「漢馬岱後」とされるに至ったのではないだろうか(『明史』撰述の時期は『蜀碧』に先立つので、『明史』編纂時に『蜀碧』が参照されることはない。念のため)。

それにしてもなぜ馬岱の子孫を称したんだ?(清代になっていきなり「漢将馬岱後」といわれても困るので兄弟が自称したことにします)

同じ馬氏ならはるかにビッグネームである馬援の子孫でも名乗りたくなりそうなもんだと思うが、南方の攻略で功あった馬援は南方の民族には受けが悪かったのかも知れない。


その2:馬岱の字は「伯瞻」?!

その根拠は光緒32年(1897)刊『扶風県郷土志』らしい。確かに同書巻4・耆旧篇にその旨書かれている。▼だがちょっと待って欲しい。三国以来まったく知られていなかった事を清末の地方志だけを根拠に信じていいのだろうか。

『郷土志』と同趣の地方志で、嘉慶23年(1818)刊『扶風県志』がある。▼同書巻11・人物は『郷土志』耆旧篇と同様に扶風の名人たちの伝記の体をなしている。班固・班超・班昭ら班氏や耿況・耿弇ら耿氏、馬援以降の馬氏などを列挙する順序は両書とも同じ、字句もほとんど同じであり、『郷土志』が『県志』の大部分をコピペしたと思われる。

▼ここで両書の馬超馬岱に関する箇所を並べると以下の通り。

『扶風県志』巻11・人物


馬超字孟起,騰之子,兼資文武,勇烈過人。初在涼州,與曹操拒蒲阪,曹曰:馬兒不死,吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈,拜左將軍。卒諡威侯。

『扶風県郷土志』巻4・耆旧篇


馬超字孟起,騰之子,兼資文武,勇烈過人。初在涼州,與曹操拒於蒲阪,操曰:馬兒不死,吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈,章武元年拜驃騎將軍領涼州牧封斄鄉侯。謚威侯。馬岱字伯瞻,騰之從子。蜀漢拜平北將軍,封陳倉侯,諡曰武侯。

強い目のコピぺ臭が漂うが、馬岱の字と諡に言及した箇所だけは『郷土志』ではじめて提示された新情報ということとなる。▼『県志』の撰者は「字伯瞻」の情報を当時まだ知り得なかったか、知りながら敢えてオミットしたかのどちらかということ。

▼前者なら馬岱の字が清末に突然「判明」したことになる(嘉慶年間に知れていれば信憑性が増すというものでもないけど)。後者なら信憑性に乏しいと判断されたことになる。どっちにしろ「字伯瞻」は怪しいと言わざるを得ない。▼それに諡も孔明とモロかぶりの「武侯」とは怪し過ぎる。こんな諡とセットで出てきた字は信ずるに足りないというべきだろう。

『三国演義』は凄い

清代に限定した以下のようなエピソードだけ切り取って見ても、数ある中国通俗小説の中でも『三国演義』は抜群だと思わざるを得ない。

順治7年(1650)刊・満州語版『三国演義』巻頭に収められたドルゴンの諭旨


此書可以忠臣、義賢、孝子、節婦之懿行為鑒,又可以奸臣誤國、惡政亂朝為戒。文雖粗糙,然甚有益處,應使國人知此興衰安亂之理也。

文章は雑だけど鑑戒とすべきお話満載で役に立つからみんな読めよ。とオフィシャルなお墨付き。このドルゴンの諭旨に照らせば、最初から王朝ぐるみ『三国演義』ファンになる素地はすでに出来上がっていたといえよう。

陳康祺(1840-1890)『郎潛紀聞二筆』・巻10 國初滿洲武將得力於三國演義


羅貫中三國演義》,多取材於陳壽、習鑿齒之書,不盡子虛烏有也。太宗崇紱四年,命大學士達海譯《孟子》、《通鑒》、《六韜》,兼及是書,未竣。順治七年,《演義》告成,大學士範文肅公文程等,蒙賞鞍馬銀幣有差。

清朝は同じ頃に経史の満文訳も出させていた。これらの書物を満文に訳する事業には、占領政策の準備としての要素も多分に含まれていたとも思われる。と同時に『三国演義』が経史と比肩すべき存在と見られていたこともわかる。

以下は勝手に選んだ『三国演義』の軍事への応用事例ベスト3。

黄人(1866-1913)『小説小話』


小說感應社會之效果,殆莫過於《三國演義》一書矣。(中略)太宗之去袁崇煥,卽公瑾賺蔣幹之故智。(太祖一生用兵,未嘗敗衂。惟攻廣寧不下,頗挫精銳,故切齒於袁崇煥,遺命必去之。...)

明将の袁崇煥ヌルハチを苦しめていた。ホンタイジは宦官を介し崇禎帝をハメて袁崇煥を殺させる際、『三国演義』で周瑜が蒋幹を通じて曹操にガセを掴ませ蔡瑁を殺させた話に倣ったという。ちなみにこれを献策したのは『三国演義』を訳した範文程だったという説がある(http://big5.ifeng.com/gate/big5/news.ifeng.com/history/special/paohongyanchongnian5/articles/200811/1111_5010_872650.shtml。範文程の墓碑銘にみえるのは陳平の策だし、リンク先は献策した事実自体を否定する見解なんですけどね)。

『小説小話』


海蘭察目不知書,而所向無敵,動合兵法,而自言得力於繹本《三國演義》。

(スカパーとかでよくある通販CMのナレーションふうに)

読書の苦手な海蘭察(?-1793)さん。戦場では兵法どおりのマニューバーで向かうところ敵なし。秘訣は満州語版『三国演義』と教えてくれました。

『郎潛紀聞二筆』國初滿洲武將得力於三國演義


初、滿洲武將不識漢文者,類多得力於此。嘉慶間,忠毅公額勒登保初以侍衛從海超勇公帳下,每戰輒陷陣,超勇曰:『爾將材可造,須略識古兵法。』以翻清《三國演義》授之,卒為經略。三省教匪平,論功第一。蓋超勇亦追溯舊聞也。

(スカパーとかでよくある通販CMの独白ふうに)

海蘭察さん「職場の後輩にも満州語版『三国演義』を勧めました。喜んでくれたみたいで何よりです」
額勒登保(1748-1805)も海蘭察からもらった満文『三国演義』で兵略を習得して大いに軍功を立てたという。それにしても、いかついオッサンどもが小説を回し読みする様はなかなか微笑ましい。