'06日米野球@大阪

ファイル整理で3年前の日米野球の画像が見つかった。


メジャーの試合前練習。ケージ左の背番号15は井口、その左は城島。


藤本と新井は同じチームになるとこの時から思ってました(佐藤藍子ふうに)


ひ、日高は?日高は、う、打ったの?


マリナーズのマスコット、ムース。


この年に殿堂入りした門田さんの始球式。自分はこの人の現役時代を知らない。


スタメン。メジャー選抜というよりナ・リーグ選抜の感がある。


井川の(今のところ)日本最後の試合。自分はこの日の井川の感じなら次の年からメジャーでローテに入ると思った(マジ)。打者ジョーンズ。


投球練習に出て来た城島。来年どうする?


ハワードとアットリーの1・2塁間だけでも腹一杯の豪華内野陣。この年は2人で90HRぐらい打ったはず。青木とレイエスはダベる。何語だ?
この直前に梵の打席でデビッド・ライトが三本間の真ん中まで前進してきたら「ライト〜お前ナメとんか〜ナンボほど前来とんね〜ん!」と野次が飛んだ。思ったことを代弁してくれてスカっとした。


バレンタイン監督が来ていた。周りの客たちがサインをもらいに群がったが警備員に止められていた。


ハワードとライトのHRで満足したし、最後まで観ると駅が混むのでここで帰った。後でスポーツニュースを見たら7−2になってて「よし、決まったな!風呂にでも入るか→あ、あれ?」の別バージョンを味わった。


WBCの熱さもいいがノンビリ飲み食いしながら観られる花試合も楽しい。もう日米野球やらんのか?

武将のイメージ

中国歴代正史にみえる「武将」の一般的なイメージについて。

後漢書』 列伝12 杜茂伝


(郭)涼字公文,右北平人也.身長八尺,氣力壯猛,雖武將,然通經書,多智略,尤曉邊事,有名北方.

光武帝の部下・郭涼は武将ながら経書に通じ、智略多く、辺境の事情に明るく、北方に名を知られていた。

三国志』 巻17 張郃


(張)郃雖武將而愛樂儒士,嘗薦同鄉卑湛經明行修,詔曰:「(中略)今將軍外勒戎旅,內存國朝.朕嘉將軍之意,今擢湛為博士.」

魏の張郃は武将ながら儒者を尊び、同郷の卑湛を経明行修に推薦した。卑湛は博士となった。

三国志』 巻43 王平


(王平)遵履法度,言不戲謔,從朝至夕,端坐徹日,浆無武將之體,...

蜀の王平は法を遵守し、冗談を言わず、一日中端座し、武将らしからぬ様であった。

旧唐書』 巻84 劉仁軌伝


(劉)仁願既至京師,上謂曰:「卿在海東,前後奏請,皆合事宜,而雅有文理.卿本武將,何得然也?」對曰:「劉仁軌之詞,非臣所及也.」上深歎賞之,因超加仁軌六階,正授帶方州刺史,并賜京城宅一區,厚賚其妻子,遣使降璽書勞勉之.

唐の劉仁軌は百済との戦いで放置された遺骸を葬り、インフラを再建し、民を慰撫した。劉仁軌の僚将・劉仁願が都に戻ると、高宗は「そなたの朝鮮からの上奏・請願はみな事宜にかない、筋道だっていた。武将であるのに、どうしてそのようなことができたのか?」と言った。劉仁願は「あれは劉仁軌の文です。私にはとても書けるものではありません」と答えた。高宗は劉仁軌を六階昇進*1させ、正式の帯方州刺史とし、都に邸宅を構えさせ、妻子に厚く施し、璽書をもって慰労した。

武将は脳ミソ筋肉で無作法、ろくな文章が書けないのがデフォルト、というイメージを持たれていたことがこの4例からわかる。もちろん上の4人を含め、このイメージにあてはまらない人物もいた。ただ、「知将」「儒将」などのことばが存在することとか呂蒙脳筋卒業が語り草になったこととかは、智謀や儒教的教養を備えた武将がやはり少数派と見られていたことの証左だろう。

*1:唐制の人事考査は「四考」で「中中」なら「一階」、すなわち4年を大過なく勤めれば一階昇進するということで、いっきに六階昇進するのは異例の大出世である。こんな褒賞を自分のものと偽らなかった劉仁願は偉い。というか、上奏文に署名がなかったとか高宗が仁軌と仁願をゴッチャにしてたとかでなければこんなやり取りにはならないはず。

ソース下さい

三国志にまつわる日本のネット限定(多分)の噂を三題。

その1:「毛沢東は『人民は阿斗になってはいけない』と言った」
「阿斗」が無知蒙昧の代名詞であるとして、毛沢東が上のように発言したという風聞がある。
しかし日中のgoogleで「毛沢東 阿斗 人民」だの「毛沢東 劉禅」だの検索ワードをいろいろ変えて調べたが、「人民は〜」みたいなメチャクチャでかい主語を使った発言の根拠は見つからない。
代わりに出てくる検索結果は、毛沢東湖北省の副秘書長と会談したときに「党幹部の子供たちは献帝みたいな温室育ちでイカン」という意味の愚痴をこぼしたついでに「阿斗」を持ち出したという逸話ばかり(例えばhttp://books.sina.com/salonbook/salon/2009-09-11/ba20539.shtml)。これの訛伝だろうか。


その2:「毛沢東は『楊尚昆には魏延の反骨がある』と言った」
某所で一席ぶってみた話題。また毛沢東がらみだがこれも根拠不明。コーエーの本には出てたらしいがそれが初出なのか?毛沢東が1959年の廬山会議で彭徳懐を批判する際に「魏延の反骨」という語句を使ったという記録は確認済み
(http://202.96.64.144.pub.books.202.96.64.144.180w.com/19131505.pdf、p169とかhttp://www.xueshubook.com/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=2410)だが、これのry


その3:「袁紹による統治は後代にいたるまで追慕された」
これも時々見掛ける話。中文googleやら中研院・漢籍電子文献やら中文wikisourceやらで検索ワードをいろいろ変えて調べた結果、

南朝梁・蕭子雲〈寒夜直坊憶袁三公〉詩”

キタコレ!どれどれ...

芸文類聚』 巻31・人部15・贈答


又寒夜直坊憶袁三公詩曰,
滴滴雨鳴階 愔愔茲夜靜
風落宣猷樹 寒凋承光屏
高帷獨曉垂 華燭夜空冷
所思不相見 方知寒漏永


ハア...贈答詩なら「袁三公」さん(誰?)は蕭子雲と同時代人のはずだし、そもそも袁紹は三公に就任してないんだが、検索結果から上の詩を見つけたときはそんな事すら頭から飛んでたわ。
だいたい袁紹を懐かしんだのが曹操の頃の人々だとか晋代の人々だとか南北朝の人々だとかでネット上の書き込み毎に時代がバラバラなのは、このお話がまともな根拠を欠いているからだろう。それに袁紹の河北支配って懐かしまれるほど長続きしたか?

三国志関係で出所不明の気になる話は他にもあるけど今回はここまで。

『東漢演義』も凄い

明の謝詔による通俗小説『東漢演義』は後漢の初めから党錮の禁までを舞台とした物語であり、大半は光武帝・劉秀を主人公とした話である。以下は序盤のエピソード「厳光卦卜知真主」・「王莽科場選俊英」の名場面である。<あらすじ>
前漢の末、外戚の王莽は孺子嬰を皇帝に立てて傀儡とし、みずから仮皇帝と称して実権を握っていた。王莽は邪魔な劉氏を消していった。南陽の豪族・劉秀も両親を王莽の大司馬・蘇献*1に殺されていた。劉秀は身を隠して金和と名乗り、復讐の機会を窺っていた。劉秀はあるとき旧友・鄧禹と再会し、その師匠の厳光から「王莽は武挙*2(武士の採用試験)を行っている。そこで仇を討ちなさい」と策を授けられる。決行の日。劉秀はみちみち知り合った馮異・王霸やさっき知り合った李忠・王梁・方修*3を先に試験場に入れ、自分は場外で機会を待つ手筈だった。

時文叔於外,見五人俱中,頓起大怒,思言:「莽賊奪我漢室江山,受此榮貴,不如射死,以雪先仇!」遂搭箭奮射,不覺氣烈猛加,雕弓拽折,驚殺文武眾臣,心寒膽戰。帝見大怒,急令金爪武士拿下,問曰:「汝何人氏?安敢欺君越法,故討死乎!」文叔曰:「吾乃南陽人。姓金名和,特來投軍赴選,有何欺君!」帝令推出斬首。時右丞相竇融急出奏曰:「陛下不可,臣恐斬訖此人,門外未試武士不敢進演,雖有蓋世英雄,勿納為用,有何妨焉?乞陛下姑恕其罪。」帝准奏,令軍卒趕出教場之外,再勿容進。

馮異ら5人は合格して宴席に招かれる。劉秀は王莽への怒りの余り会場に乱入し、矢をつがえて弓をひきしぼる。しかし闘気みなぎる余り弓をへし折り、文武の群臣を驚倒させてしまう。
劉秀の粗相に孺子嬰は「何者じゃ?君を欺き法を犯す奴は死ね!」と怒り、逮捕させる。
「わたしは金和と申す者、試験を受けに来ました。君を欺くとはとんでもない」。思いっきり素性を偽り君を欺きながら弁解する劉秀。
劉秀を斬らせようとする孺子嬰。そのとき右丞相*4・竇融が「この者を斬れば残りの受験生は誰も来なくなります」ととりなした。劉秀は退場処分で済まされる。

忽又四人直入,名曰邳彤、景丹、蓋延、堅譚。王莽俱納為用。選畢,又見一人,身長九尺,面如紫玉,目若朗星,從左翼門進,直奔彩山殿下。莽問曰:「汝何人氏?」對曰:「吾乃棘陽人也,姓岑名彭,字君然,聞陛下招納賢士,故來投選。」帝聞,令選硬弓三張,與彭扯拽,後射朵心。岑彭欣然起,拽硬弓,連斷兩把。再拽第三張,見其頗硬,乃曰:「此弓略可為用。」奮身兜起,連發三矢,俱中紅心。帝大喜,曰:「真將軍也!」即封彭為武舉狀元。(中略)帝謂岑彭曰:「武狀元定矣!」蘇獻奏曰:「還恐有未試者,再令彭走一遭,方才可定。」言未訖,見眾人內閃出一大漢,身長九尺五寸,面如活蟹,須若鋼釘。大喝一聲,言「狀元留待我來,何人敢占?」

邳彤・景丹・蓋延・堅譚がいきなり現れて合格する。この4人はここが初出。と、タッパがあって目に星、「紫玉*5」のごとき面の男が1人入場してきた。
王莽「何者じゃ?」男「岑彭と申します」
「面如紫玉」とは紅顔の美丈夫であろう。この岑彭は強弓を2張り折る力の持ち主、矢を放てば百発百中で「真の将軍である」と孺子嬰をとことん喜ばせ、状元(首席)に選ばれた。
(中略箇所:ここで収まらないのが景丹・蓋延・堅譚。首席の座を賭けて岑彭に挑戦するが簡単に退けられる。腕ひとつで征西将軍の号もゲットした岑彭。空気と化した馮異ら5人。)
孺子嬰が岑彭を首席と宣言する。蘇献が「まだ受験していない者がおります。岑彭に挑戦させてから首席を決めましょう」と言い終わらぬ間に「首席の座は誰にも渡さねえ!」鋼の釘のようなヒゲを生やしたカニみたいな顔の巨漢が乱入し、大音声で呼ばわった。

       HERE COMES A NEW CHALLENGER!

スト4のVS画面でコラを作りたかったが著作権の都合でMUGENにした

帝見其人勇烈,宜至殿下,問曰:「汝何人氏?」答曰:「吾乃南陽胡陽人也,姓馬名武,字子張,久已立待,未蒙選用。見陛下封小將為狀元,願與略決輸贏。」(中略)帝急止之曰:「狀元定矣,不必再爭。」武曰:「臣不減於岑彭,豈肯屈居其下!」帝曰:「論汝武藝,可與並肩,但貌不及於岑彭,固如是也。何苦競乎?」馬武曰:「陛下何言!武略選試,並非以貌取人。早知如此,吾致死亦不來也!」帝怒,令趕出教場而去。

孺子嬰「何者じゃ?」男「馬武と申します。ずっと放置プレイ喰らってきました。岑彭みたいな小物を首席にされましたが、勝負を決めさせて頂きたい」
(中略箇所:岑彭と馬武との激しい3本勝負は全部ドロー。)孺子嬰「首席は岑彭に決まっておる。もうやめろ」馬武「岑彭に負けなかったのに下位に置かれるとは納得できません!」
孺子嬰「そなたらの武芸は互角であるが、岑彭のほうがいい男である。もともとそうであるのに何故あえて争うのか」
馬武はキレた。「顔で決めてんじゃねえよ!*6そうだと知ってたら死んで(も)来ねえよ!」暴言により退場処分となる。

この後、劉秀と馬武は意気投合する。馬武は王莽を批判する詩文を城門の壁に書き付ける。素性が割れた劉秀とともに指名手配犯として追われる身となる。

このように『東漢演義』は突き抜けた歴史エンタテインメントである。いわゆる四大奇書アカデミー賞○×部門受賞作品とすれば、『東漢演義』はチャック・ノリスの「地獄のステルスコマンド」である。これがほとんど日の目を見ないのは惜しい。

*1:オリキャラ

*2:この時代にあったっけ?

*3:「万修」のはずだが「万暦」を犯すため「方」とされたと思われる。

*4:これぐらいで怒っては損します。

*5:薔薇の種類に「紫玉」というものがあることと、「やる夫光武帝」では阿部高和が岑彭を演じていることは注目に値する。

*6:唐代の科挙の選考基準のひとつとして「貌」、すなわち貴族らしく優雅な容姿であることが挙げられていたと思う。

『項羽と劉邦−若き獅子たち』の元ネタ

項羽と劉邦若き獅子たち』が単行本化された際に書店に配布された販促用色紙

横山光輝氏の『若き獅子たち』は楚漢の興亡を描いた作品だが、虞美人の弟・虞子期*1の存在や商人に扮した鍾離昧が懐王の孫を探す場面、韓信の軍法など、『史記』・『漢書』を根拠としないものが散見される。
その元ネタの多くは元禄時代の夢梅軒章峰・徽庵*2による『通俗漢楚軍談』、およびその底本である明・甄偉の『西漢演義』である。
例えば始皇帝の夢に青衣・赤衣の子供が現れて太陽を奪い合う場面は『西漢演義』では以下の通りである。

西漢演義』 第7回 始皇命徐福求仙


見紅日墜于面前,従東一小児,身着青衣,面如鋼鉄,目有重瞳,向前欲抱太陽,未曾抱起,従南又一紅衣小児,大叫:“青衣小児,未可抱去!我奉上帝敕命,特来抱太陽。”
両個不服,各努力争打。青衣小児,連摔紅衣小児七十二交,紅衣小児不服,跳将起来,用力打訖一拳,青衣小児仆地便倒,気絶而死。紅衣小児将太陽抱起向南去。
始皇叫小児:“且住!我問你是誰家小児?通個名姓!”
小児曰:“我是堯舜之裔,生于豊沛,先入咸陽,蜀封興義。沙丘汝帰,長安我立,帝簡命在,四百之祀。”
言罷,向南而去,只見雲霧迷天,紅光満地,小児不知所往。...

笑訳に代えて『通俗漢楚軍談』の該当箇所も載せる。

『通俗漢楚軍談』 巻1 始皇巡狩望雲気


紅ノ日輪御前ニ落タリシカ,身ニ青衣ヲ披(き)テ面ハ鉄ノ如ク,眼ニ重瞳アル小児東ノ方ヨリ走来リ,日輪ヲ抱テ去ントスルニ,又紅衣ヲ披タル小児南ノ方馳セ来リ。
「汝ナニトテ日輪ヲ取ントスル,我天帝ノ命ヲ奉タリ,速ニ還セ」ト呼ハリ,互ニ争フテ打合ケルガ,青衣ノ小児初ノ間ハ力強メ紅衣ノ小児ヲ連打七十二度ナレバ,紅衣ノ小児肯テ倒レズ力ヲ出シ一度打タレハ,青衣ノ小児地ニ倒テ死タリケリ。
此ニ依テ紅衣ノ小児日輪ヲ抱テ南ヲ指テ去ケルヲ始皇声ヲ揚テ「小児シバラク(とどま)レ,汝ハ如何ナル者ソ」ト問玉フニ,小児答テ申ケルハ「我ハ是堯舜ノ裔,豊沛ニ生レ,先ニ咸陽ニ入テ義ヲ興シ四百年ノ基ヲ立」
ト云ステテ南ヲ指テ走去ケルカ,雲掩ヒ霧起リテ紅ノ光ヒラメキケレバ...

楚漢の興亡の暗示というには露骨すぎるネタバレであるが、明代の思想とか歴史観が反映されているのかと勘ぐってみたくなる。
項羽劉邦の化身である子供たちに青・赤の服を着せたのは五行説を根拠とするものであろうが、漢を火徳=赤とするのは当然としても、楚を木徳=青として木火土金水のレールに乗せる例は少ないように思われる(参照、http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090721/1248102274)
また、青服の子を舜と同じ重瞳の持ち主としながらも、赤服の子を舜の裔としている。これは項羽が舜の末裔であったかもしれないと暗示する、『史記項羽本紀に収録された伝承を真っ向から否定するものである。
これらのことが明代の思想状況と関係があるのか、単に創作上の都合で書かれたものか調べてみるのもいいかも知れない。

*1:西漢演義』では虞美人の父方のいとこ(「堂弟」)、『通俗漢楚軍談』では虞氏の「一族」、ついでにドラマ「大漢風」では虞美人の兄。

*2:やる夫光武帝・39章・40章にも登場する。

四川

蜀漢が中原に進出できなかったことは、ネット上の三国志談義で盛んに論じられるトピックのひとつである。これは「○×すれば進出できた」の類のIF系シミュレーションの肴にされたり、劉備孔明らが無能であることの根拠として挙げられ、ループ進行に寄与することがしばしばである。

しかし、古蜀から武漢国民政府に到るまで、四川盆地に割拠した幾多の勢力のうち中原に進出して天下を獲ったのは前漢だけである。古蜀とかどれだけ中原に出る気があったかつう話もあるがその点は措く。これは四川が人為では克服できないぐらい地政学的にほとんど詰んだ地域であることの証左といえないだろうか。
歴代の四川の勢力がほとんど全て中原進出に失敗した事例はどれもこの地域を足掛かりに中国を統一することの難しさを示す好個の材料であり、これらの事例を仔細に検討することは非現実的なシミュレーションを百万回繰り返すよりも有用だと思う。ただし自分で検討する予定は無い。
まして結果論で蜀漢政権が無能だと言い立てるのは筋違いだろう。

という主張をループのただ中に放り込む元気はないので自分の巣の中でつぶやいておく。
で古人の文章に似たようなことを言ったものはないかと探したが見つからなかった..
その代わり、でもないが蜀がらみで面白い文章があるので載せておく。

南宋・洪邁『容齋四筆』 巻16 取蜀將帥不利


巴蜀通中國之後,凡割據擅命者,不過一傳再傳。而從東方舉兵臨之者,雖多以得鉨,將帥輒不利,至於死貶。
漢伐公孫述,大將岑彭、來歙遭刺客之禍,吳漢幾不免。魏伐劉禪,大將蠟艾、鍾會皆至族誅。
唐莊宗伐王衍,招討使魏王繼岌、大將郭崇韜、康延孝皆死。
國朝伐孟昶,大將王全斌、崔彥進皆不賞而受黜,十年乃復故官。

清・趙翼『陔余叢考』 巻40 取蜀將帥不利


洪容齋歴叙古来中國取蜀將帥多不利。(『容齋四筆』とほぼ重複するため中略)此北宋以前可歴歴数者也。
元憲宗率兵入蜀,攻重慶,被傷,卒于釣魚山下。
明湯和、傅友紱取蜀,和被鐫責不賞,友紱家雖獲賞而終不得其死。則取蜀將帥誠不利也。

蜀攻めの将がしばしば不運に見舞われるというジンクスである。この地域には人智の及ばない何かがあるのだろうか。